ラベル 殉教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 殉教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年2月2日土曜日

1597年2月5日 日本最初の殉教者

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
                                       マルコ8:34
26聖人のレリーフの中央に刻まれている御言葉です(原文は文語)
日本で最初の殉教者です
宣教師、子供、武士、農民・・・
いろいろな立場、年代を越えて信仰が浸透していったのを知ることができます
尾張藩内においても、長崎に次ぐ殉教者が多いと言われています
これから、終わりの時代の宣教に向けて、困難、艱難、迫害の中で、
主の御心がなりますように!
主に聞き従えますように!
信仰が守り通せますように!
主よ!どうか備えさせてください

2011年3月4日金曜日

時津にて


 ここは、殉教者たちが冬の夜の海の上で最後の夜を過ごした場所です。殉教者たちは、彼杵から船に乗せられて時津まで来ましたが、船から降りることができませんでした。空港からここまで船が出ています。晴れた日は穏やかな暖かい日差しに海は明るく輝いていますが、
 2月4日、冬の夜の海は、どんなだったでしょうか。

       「わが父よ。できますならば、この杯を
       わたしから過ぎ去らせてください。しかし、
       わたしの願うようにではなく、あなたの
       みこころのように、なさってください。」
                         マタイ26:39

2011年2月22日火曜日

彼杵にて


 ここは、リーダーのペテロ・バプチスタ神父が殉教をまえにして、これからの日本の将来を思って涙した所です。その涙の意味を知らない役人に、死ぬのが怖くて泣いていると誤解されていることを知ると、「まだキリストを知らない人に、つまずきを与えたくない」と涙を止めたそうです。
 殉教、迫害のあった場所、関係する場所・・・思えば暗く、悲しみの場所のような気がするのですが、ここは底抜けに明るく、穏やかな空気が流れているのです。不思議な場所です。
                               『殉教』(イザヤ木原真著)より

        なくなる食物のためでなく、いつまでも保ち、
       永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
                            ヨハネ6:27

2011年2月12日土曜日

山本村で


 ここは、四百数十年前、26聖人の中の一人、ルドビゴ茨木が「わしの養子になれ」という寺沢半三郎の誘いを断って、殉教を選んだ佐賀県唐津の山本村です。12歳の少年が「キリストを捨て、永遠のいのちをつかのまの命とかえることはできません」「お奉行さまこそ、キリストを信じて私と一緒にパライソである天国へ参りましょう」と逆に福音を語り、伝道するのです。
 本気で信じているでしょうか。天国を、永遠の命を、天に報いがあることを。イエス・キリストの救いを、十字架を、赦されていることを。・・・思いを探られます。日々、主を選び続けることができるでしょうか。
                      『殉教』(イザヤ木原真著 み声新聞社)より

         けれども、私たちの国籍は天にあります。
                               ピリピ3:20

2011年1月31日月曜日

目をさましていなさい


2月5日は日本で始めて26人のクリスチャンが長崎の西坂で十字架刑をうけ、殉教した日。26聖人殉教記念日です。その中には12歳の子供や宣教師もいました。この尾張の地からも最初の殉教者がでています。日本の殉教者は20万から100万いたとも言われています。歴史の中でぼんやりとは知っていても、クリスチャンになった今は、その重みがひしひしと伝わってきます。クリスチャンゆえにこれから起こるであろう迫害、困難の中で喜んで、天の喜びに満たされて信仰を守っていけるでしょうか。クリスチャンとしての使命をきちんと果たして天に帰ることができますように。これからの歩みが主によって守られますように。しっかりと目をさましていることができますように。

     これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
    約束のものを手に入れることはありませんでしたが、
    はるかにこれを見て喜び迎え、地上では旅人であり
    寄留者であることを告白していたのです。
                           へブル11:13

2010年2月10日水曜日

日本最初の殉教者ー1


 山本村(佐賀県唐津市山本)に行ってきました。ここは、日本で最初に殉教した26聖人の内の一人、最年少12歳のルドビゴ茨木が神様を選んだ場所です。処刑執行人寺沢半三郎がこの少年を助けたくて、「私の養子になれ」キリシタンを捨てることが条件で、「信仰を捨てて養子になれば、後50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着られる。そのうえ、刀をさして武士になり、大名にもなれるぞ」という誘いをすべて断って、ルドビゴ茨木は「そうしてまで私は生き延びたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりの無き永遠のいのちを、たちまち滅びるつかの間の肉体の命とは代えられないからです。お奉行さま。あなたの方こそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソ(天国)においでなさるのが、ずっと良いことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国に参りましょう。」といって逆に伝道するのです。心から神を愛し、信じ、従い、天の故郷に帰ることを確信して殉教の道を選び、西坂まで歩いたのです。
                             『殉教』 イザヤ木原真著  
     
     これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを
    手にいれることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、
    地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
                                  へブル11:13

2009年11月30日月曜日

高山右近


 あの時代、多くの人が、支配者階級の武士たちも神を信じた。度重なる禁教令の中、信仰を守り通した高山右近。1614年に国外追放となり、マニラへ。ところが、キリシタンの英雄として最高のVIP待遇で迎えられたそうだ。「神父やキリシタンに囲まれて死ぬのは幸せだ」と言い残して、天国へ。
            『戦国武将ものしり事典』より

  信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
                         へブル11:6

2009年6月27日土曜日

長崎のキリシタン


 キリシタンの弾圧は1873年2月24日(明治6年)高札が撤去されるまで続いた。尾張では1629年に初めて一人の殉教者がでたが、1670年以降はでてないという。根絶やしにされたのか、それとも隠れキリシタンとなって地下に潜ったのだろうか。長崎・浦上村では浦上四番崩れといわれる一村総流罪がおきた。津和野、金沢など、そして名古屋には375人が送られたと言う。こういったキリスト教弾圧に対して英、米、仏、独の反発から禁教令を掲げた高札が撤去されたと言う。
                           『日本キリシタン迫害史』津山千恵著
                           『美和町史 人物一』
          民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
          あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
          神は、われらの避け所である。     詩篇62:8

2009年6月17日水曜日

もしも・・・

 江戸時代、五人組連座制、絵踏み、寺請制度、などによりキリシタンを弾圧し、一説によると、殉教者は20万人~30万人とも言われているそうだ。まだ明らかにされてないものも含めると、さらに数は増えると思われるが。しかし、これほどの出来事が私たちは知らされてなかったのではないだろうか。ローマのコロッセオには十字架が建っているという。もしも、殉教地に、殉教者の数だけ十字架が建っていたとしたら、私たちの意識は随分と違っていたのではないだろうか。
           『日本キリシタン迫害史』  津山千恵著
           『美和町史 人物 一 』

2009年5月29日金曜日

コンスタンチノ(5)

 長崎で殉教した26聖人の中に尾張(愛知県)出身者がいます。最年少ルドビゴ茨木とその父パウロ茨木、レオン烏丸(姓は茨木、パウロ茨木の弟)はこの美和町花正地方の出身と考えられるそうです。とすると、コンスタンチノとなんらかの関連もあったようにおもわれます。この地域のキリシタン関係の資料が見つかってないそうなので断定はできないのですが。主のときに発掘されることでしょう。殉教はリバイバルの種。ここにも主の栄光が現されることを願い、祈っています。
                       (『美和町史 人物 一 』)
                       (『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟著)より