2009年5月29日金曜日

コンスタンチノ(5)

 長崎で殉教した26聖人の中に尾張(愛知県)出身者がいます。最年少ルドビゴ茨木とその父パウロ茨木、レオン烏丸(姓は茨木、パウロ茨木の弟)はこの美和町花正地方の出身と考えられるそうです。とすると、コンスタンチノとなんらかの関連もあったようにおもわれます。この地域のキリシタン関係の資料が見つかってないそうなので断定はできないのですが。主のときに発掘されることでしょう。殉教はリバイバルの種。ここにも主の栄光が現されることを願い、祈っています。
                       (『美和町史 人物 一 』)
                       (『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟著)より
 

2009年5月28日木曜日

恵み

 先週の土曜日、夕飯の準備をしている時うっかりしてゆでこぼしの熱湯を左手の甲にかけてしまいました。あっと言う間の出来事でした。赤くなり、ジンジン、ヒリヒリしてきたので水道水で時々冷やしながら、感謝をし、いやしの祈りを何回かして、ばたばたとあわただしく準備を続けました。夕飯が終わる頃には大分痛みが収まってきました。皆が食事を終えて片付ける頃、ふと左手をみると赤くないのです。ヒリヒリとした痛みもとれてました。神様が完全にいやしてくださいました。ハレルヤ!すばらしい神様、感謝します。
       キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
                                       Ⅰペテロ2:24

2009年5月22日金曜日

コンスタンチノ(4)


 当時の尾張キリシタンのほとんどはコンスタンチノが洗礼を授けたようだ。迫害の強い中、しかも宣教の中心・京都から遠く離れ、宣教師の常駐もない中でこれほどの信仰が堅く守られ、働きが広げられていったのには驚きだ。神様の召しにより、コンスタンチノは牧者としての働きをしていたようだ。
                『美和町史 人物 一』より 

2009年5月16日土曜日

あふれでる恵み

 以前働いていた職場は、夏は40度を超えることが多く本当に暑い夏でした。午後が最高頂。頭もクラクラ。せめて扇風機を、冷風機を、皆がかわるがわる訴えても、誰も本気で聞いてくれませんでした。“サウナみたいでいいんじゃないの”と課長の一言。以前から働いている人たちはこんなものだとあきらめているようでした。ある日ある時、ふと思いました。この暑さを感謝してなかった。“神様、この暑さを感謝します。”心からの一言でした。するとどうでしょう。5分もしないうちに、〇〇次長が来て温度計を見ていきました。△△部長も温度計を見にきました。入れ替わり立ち代り事務所から様子を見にやってくるのです。極めつけは、アイスの差し入れでした。しかも仕事中に。この暑さは今に始まったことじゃないのに。御名をあがめます。神様です。先日同僚にばったり町で会ったとき、今年の夏はすずしくなったと言ってました。私はこのためにこの職場に送られたのでしょうか。残念ながら、わたしはその恵みを味わうことなく仕事をやめましたが。神様は私の周りにも恵みを注ぎ、あふれさせてくださる方。ハレルヤ!

2009年5月14日木曜日

コンスタンチノ(3)

 美和町の花正で自宅を教会として、非難、中傷、迫害の中伝道を続けキリシタン村といわれるまでになり、毎年京都の宣教師のいるところに村人たちを連れて行ってたという。1578年には初めて宣教師オルガンチィーノ神父が、1587年には宣教師パシオが花正を訪問。コンスタンチノも宣教師にかわって、尾張、美濃へと派遣されその働きは、清洲、一宮、美濃へと広がっていった。1591年頃亡くなったようだ。1597年の2月5日、日本26聖人の殉教が長崎でおきている。この中に尾張出身の人が5人いると言う。この時代、これほどの情熱を持っての伝道、死をも恐れない強い信仰は、どこからきたのだろうか。どのようにして持てたのだろうか。
                                ( 『美和町史 人物 一』より )

       イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、
      地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたが
      たは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の
      御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなた方に命じておいた
      すべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わ
      りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 
                               マタイ28:18~20  

2009年5月13日水曜日

一粒の麦

  美和町周辺にも殉教地があります。四百数十年前、日本にこのようなクリスチャンがいて、殉教者がこんなにもいたとは知りませんでした。若い頃、キリスト教は外国の宗教、日本人は仏教と思い込んでいましたから驚きです。最初の殉教は1597年2月5日、日本26聖人が長崎の西坂で殉教しました。いずれこの地の歴史も明らかにされていくことでしょう。何一つ無駄にはならず、やがて豊かな実が結ばれる日が必ず来ますから。

          まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に
          落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、
          豊かな実を結びます。
                                           ヨハネ12:24

         

2009年5月9日土曜日

同じスピリットを!

 美和町のゴスペル賛美チーム"シオン”ができて、まず殉教があったとされている場所(確証がないのですが)で礼拝しました。次の日の美和礼拝で喜びが心の奥底からフツフツとわいてくるのです。不思議でした。礼拝、神学校を終えての帰りには、東西にアーチ型の一部分二重の虹がでました。同じ神様が私たちを導いてくださいます。
      イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。 
                              へブル人への手紙13:8

2009年5月7日木曜日

コンスタンチノ(2)


 織田信長が活躍していた安土桃山時代、来日した宣教師ルイス・フロイスが記録した『日本史』は、フランシスコ・ザビエルの来日から26聖人の殉教後フロイスの死去(1597年7月)までの日本キリスト布教史を記録している。その中に日本名不詳のコンスタンチノという名がでてくる。奈良の大和・沢城の城主、高山飛騨守(高山右近の父)の下で(1564)洗礼を受けた。城内の教会の守番をしていく中で、その教えを学んだ。沢城が敵に奪われ、1567年頃、コンスタンチノは故郷花正に戻り自宅に祈祷所を設け、伝道を始めた。1580年頃には信者が600人に増え、キリシタン村として有名であったらしい。フロイスは彼のことを花正地域の「全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参のコンスタンチノ」と言っている。日本で最初の殉教者ー26聖人ーの中に尾張出身の人がいる。興味は尽きない。
                         『美和町史 人物 一 』より
                                                                ※ 年代に間違いを見つけましたので
                        訂正させていただきました
                       大変失礼いたしました
                       

2009年5月2日土曜日

恵み

 父の部屋の暖房を、危なくないようにと床暖房にしました。が、父は床暖房よりもハロゲンストーブのほうを好んで使ってました。ある日、床暖房のコントロールパネルの表示がおかしいのです。ベッドを置いたので、その部分が重みで断線したようでした。すぐに修理をお願いしたのですが、なかなか来てもらえませんでした。スイッチが入った状態になってるようでしたので、漏電して火事になったらーと思うと怖くて。何度も何度もこのことを感謝して、パネルに手を置いて祈りました。でも次第に忘れていきました。1ヶ月ぐらい経った頃突然"なおっとる”という家人の驚きの声がするのです。何時修理に来てくれたの。誰が直してくれたの?いいえ、だれも修理には来てくれませんでした。見るとパネルが正常に表示されて、切り替えもできるようになってました。ただただ必死で感謝しただけです。神様が直してくださったとしか考えられません。神様ありがとうございます。