2009年6月30日火曜日

もっと祈らねば


 浦上のキリシタンのなかに、高木仙右衛門と言う人がいた。この人は誰が見ても一番最初に信仰を捨てるようにみえたという。しかし反対に皆が棄教したときでも、仙右衛門は最後まで守り通したと言う。自分の弱さを知り、毎週断食し祈ったと言う。神様を信頼して、祈っていくとき助けられる。困難を乗り越える力を与えられる。世界的な経済不況、異常気象、戦争不安等の中でまっすぐに生きていけるように、クリスチャンとしての使命が果たせるように、先人の信仰を見習って・・・・・。
                  『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著
      これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に
     入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上で
     は旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
                                 へブル11:13

いつか必ず、・・・


 同じような弾圧の中を通りながらも、長崎で信仰が継承されてきたのはなぜだろうかと考えてみる。指導者がすべて捕らえられ、殉教して行くなかで、一村すべてがキリシタンでなければ信仰を守り通すことが難しく、武士を捨てて農民となったキリシタンとともに、「帳方、水方、聞き役」という地下組織力により信仰が守られていったという。また、宣教師の弟子となっていたバスチャンの教会暦と預言「7代経てばコンヘソーロが大きな黒船でやって来て毎週でも告白することができるようになる・・そしてどこででも自由に賛美を歌って歩けるようになる・・・」は励ましと希望となり、預言の成就を信じて語り続けられた。鎖国が解かれ、1858年通商条約が結ばれ、フランス人宣教師が大浦天主堂を建てたことで浦上キリシタンと出会いがあった。
                     『日本キリシタン迫害史』 津山千恵著
                     『まんが日本キリスト教史』上・下巻 まどかまこ著

2009年6月27日土曜日

長崎のキリシタン


 キリシタンの弾圧は1873年2月24日(明治6年)高札が撤去されるまで続いた。尾張では1629年に初めて一人の殉教者がでたが、1670年以降はでてないという。根絶やしにされたのか、それとも隠れキリシタンとなって地下に潜ったのだろうか。長崎・浦上村では浦上四番崩れといわれる一村総流罪がおきた。津和野、金沢など、そして名古屋には375人が送られたと言う。こういったキリスト教弾圧に対して英、米、仏、独の反発から禁教令を掲げた高札が撤去されたと言う。
                           『日本キリシタン迫害史』津山千恵著
                           『美和町史 人物一』
          民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
          あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
          神は、われらの避け所である。     詩篇62:8

2009年6月25日木曜日

祝福がありますように!


 先日、犬山市の老人介護施設でゴスペルコンサートをしました。とても暖かく迎えていただきました。この地はかつてキリシタン伝道所があり、また多くの殉教者が出たところでもあります。犬山城の殿様がキリシタンで、初期の頃は保護されたためキリシタンが増えたそうです。取締りが厳しくなってから、一村で200人もの人たちが殉教し、村がなくなったところもあったそうです。奇しくも道を間違えたためその近くを通りました。命がけで伝道し、命がけで神様を愛したのですね。
          けれども、私たちの国籍は天にあります。
                               ピリピ3:20

2009年6月23日火曜日

もっと信じなければ


 梅雨に入る直前に玉葱の収穫をしました。遅く植えたので取り入れも遅くなりました。空き地を少しずつ耕やして、現在3列になりました。去年はじめて、スイカを植えました。(一度つくってみたかった)でも、草取りがたいへんで間に合わず、草に埋もれてしまい、もうだめーと、思っていたらなんと、こつぶ(?)が3個なってました。もう少し早めに気づいていたらおいしく食べることができたようでした。スイカの様子を見もしないであきらめてしまってました。神様ごめんなさい。せっかく楽しませようとして下さったのに、無駄にしてしまいました。ささやかな労苦も無駄になってしまいました。
        信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、
       神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、
       信じなければならないのです。
                        へブル11:6

2009年6月17日水曜日

もしも・・・

 江戸時代、五人組連座制、絵踏み、寺請制度、などによりキリシタンを弾圧し、一説によると、殉教者は20万人~30万人とも言われているそうだ。まだ明らかにされてないものも含めると、さらに数は増えると思われるが。しかし、これほどの出来事が私たちは知らされてなかったのではないだろうか。ローマのコロッセオには十字架が建っているという。もしも、殉教地に、殉教者の数だけ十字架が建っていたとしたら、私たちの意識は随分と違っていたのではないだろうか。
           『日本キリシタン迫害史』  津山千恵著
           『美和町史 人物 一 』

2009年6月13日土曜日

コンスタンチノ(7)  


 当時、「~日本人イルマンは零名以外の名を用いてはならない。~」というイエズス会の規定があったようで、コンスタンチノは牧者、伝道師として働いていたようなので、日本名は残されてないのだろうか。教会堂の守番として、十戒とキリシタンの教え、祈り等を教えることができたと言うが、本当に農夫だったのだろうか。やがて天で明らかに!それにしても、この地方ー愛知県は不思議だ。キリシタンを擁護した信長(勝幡生まれ)、迫害した秀吉、家康(三河)、加藤清正、そして寺沢半三郎もともに愛知県からでている。
             けれども、私たちの国籍は天にあります。
                                 ピリピ3:20

2009年6月11日木曜日

コンスタンチノ(6)


 尾張(美和町)花正地区で蒔かれた福音の種は、清洲(現清須市)、一宮、犬山、江南、美濃(岐阜)へと広がり、根を張っていった。最初、尾張藩はキリシタンの取り締まりは消極的であって、緩やかであったそうで、そのためキリシタンは増えていき九州についで多かったと言う。が、取り締まりも次第にきびしくなり、何千人という殉教者がでた。宗門改めが年2回実施されたのは天草と尾張だけだそうだ。
       『青山玄教授退任記念 キリシタン論文集 歴史・文化・言葉』より
       『美和町史 人物 一』より

2009年6月6日土曜日

叫び!

 ふと、思い出したことがあります。主と出会った頃のことです。私の前に大きな問題が起きた時、苦しくて苦しくて呻いてました。自分を責めても、人を責めても、我慢をしても何の解決もなく、毎日暗闇がどんどん深くなって絶望の日が続いてました。そんなある日、“神様、助けて”と心から叫んでいました。しばらくしてクリスチャンに教会に誘われ、イエス様を知り、救われました。状況は何も変わらず。でもなぜか、うれしいのです。心に喜びがあふれてくるのです。そうして、周りの人達を教会に誘ってました。神様は私の叫びを聞いて助けてくださったのですね。
           「主の御名を呼び求めるものは、だれでも救われる。」のです。
                                     ローマ10:13
                                      

2009年6月2日火曜日

私の助けは、天地を造られた主から来る。

 嫌なことや失敗が続くと、自分を責め、すっかり落ち込んでしまいます。悪いことばかりに目がいってしまいます。不安と恐れが代わる代わる襲ってきます。なぜ、どうしてと空回りばかり。“誰か助けて”ーすると神様は“私を感謝しましたか”といわれます。そうです感謝と賛美です。神様をほめたたえます。そして失敗を感謝します。できない自分を、失敗した自分をそのまま感謝し続けていると、失敗の原因が見えてきました。そうだったのかって。あとは悔い改めて感謝して祈ります。すると平安がきました。同じ失敗を繰り返さなくてすみます。失敗に引きずられなくてすみます。恐れから萎縮しなくてすみます。神様、賛美と感謝を教えてくださってありがとう。これがあるから歩いていけます。
            神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された
           人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくだ
           さることを、私たちは知っています。
                              ローマ8:28