音吉は、英国籍をとり、ジョン・マシュー・オトソンと名を変え、シンガポールの女性と結婚し3人の子供がいた。1864年、シンガポールにおいて英国への帰化が認められた。記録によると、3年後50歳で亡くなり、シンガポールのキリスト教徒の墓地に葬られたという。音吉の人生に宣教師を介してのキリスト教・神との出会いがあった。最古の和訳聖書に関わったことで埋もれていた歴史から掘り起こされ、三浦綾子さんの『海嶺』の小説がうまれたという。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の
ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8:28
2009年7月19日日曜日
音吉(2)
音吉たち3人は、米国ワシントン州に漂着し先住民族マカ族に保護された後、英国のハドソン湾会社に引き取られた。ロンドンを経由してマカオで滞在中、宣教師カール・ギュツラフに日本語を教えると共に聖書の和訳に協力した。1849年イギリス海軍の軍艦マリナー号で浦賀へ通訳、林阿多(リン・アトウ、中国人)として来た。1854年にも日英和親条約の締結のため英国艦隊の通訳として長崎にきた。日本最初の英語教師ラナルド・マクドナルドが長崎にやってきたのは音吉たちの影響があったと言う。1862年にはシンガポールで、江戸幕府の外交使節の一員としての福沢諭吉と出会っている。
2009年7月16日木曜日
くちなしの花が咲いてました
2009年7月12日日曜日
音吉(1)

音吉は、1832年(13歳)に見習い船員として宝順丸に乗り込み江戸に向かう途中遭難した。1年2ヶ月漂流後アメリカ西海岸に漂着した。乗組員14人のうち生き残ったのは、音吉、久吉、岩吉の3人のみであった。マカ族に保護された後イギリスの会社に引き取られ、マカオで日本に帰る機会を待ってる間に、宣教師ギュツラフの聖書和訳に協力した。“モリソン号”で浦賀沖、鹿児島まで来るが異国船打払令により上陸できなかった。『海嶺』のクライマックス・感動のシーンでもある。この後音吉はギュツラフの元で通訳としての訓練を受け、上海、シンガポールで貿易の仕事をしながら漂流民を助けたと言う。
『音吉の足跡を追って』 美浜町企画開発課発行
「産経新聞」 日本人の足跡 にっぽん音吉①~⑤
『日本に帰れなかった男たち』
2009年7月6日月曜日
2009年7月4日土曜日
2009年7月3日金曜日
もしかしたら・・・
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